天才科学者フランケンシュタインは生命の秘密を探り当て、ついに人造人間を生み出すことに成功する。しかし誕生した生物は、その醜悪な姿のためフランケンシュタインに見捨てられる。やがて知性と感情を獲得した「怪物」は、人間の理解と愛を求めるが、拒絶され疎外されて…。若き女性作家が書いた最も哀切な“怪奇小説”。(Amazon『フランケンシュタイン』より)
“怪奇小説”?いいや、”喪男小説”
今や有名になっていることだが、フランケンシュタインとは怪物の名前ではない。
フランケンシュタインは怪物を造った博士の名前であり、怪物に名前はない。そのため作中では”怪物”や”悪魔”などと呼ばれている。
フランケンシュタイン博士は、生命の神秘への好奇心が高じて人造人間を造り出すことに成功した。しかし、博士は醜さのあまり怪物を見捨て、故郷のスイスへ帰ってしまう。すると、怪物は博士の周囲の人間を襲いだすようになり……というストーリーである。
『フランケンシュタイン』は19世紀初頭のゴシック小説である。ゴシック小説とは18世紀末から19世紀初頭にかけて流行した幻想的な小説のことであり、本作品はそのカテゴリに入る。また、その性質からホラーやSFの要素を含むことが多い。
この作品は”世界初のSF小説”と評されることもあれば、Amazonの紹介文のように”怪奇小説”とされることもある。また、小説の大部分は博士の視点からフランケンシュタインの恐怖を描いていることから、”ホラー小説”と読むこともできる。
ただ、「それではこの小説は”何小説”なのか?」と聞かれたらこう答えたい。
“喪男小説”だ、と。
孤独を運命づけられた”喪男”
”喪男”とは、”モテない男”を意味するネットスラングである。
この喪男という言葉を思想や文学の考察に用いた先駆者として本田通がいる。
本田はその主著『電波男』にて、「現代日本は恋愛資本主義に支配されている」と喝破し、喪男こそが現代のカーストの最下層であるとしている。
本田通流に言うなら、フランケンシュタインの怪物は紛れもない”喪男”であり、『フランケンシュタイン』は究極の”喪男小説”である。
怪物の喪男具合は並大抵ではない。
なぜなら、怪物は誰にも愛されることがなかったからだ。
作中、こんなシーンがある。
フランケンシュタイン博士により置き去りにされた怪物は、ある山小屋を見つけ、そこに住むことになった。その山小屋の近くにはもう一つ小屋があり、そこではある家族が暮らしていた。怪物はその家族の話を聞くことで、その事情や関係性を理解し、次第に情を抱くようになる。
そして意を決して話しかけにいったところ、目の不自由な老人との会話に成功した。しかし、老人の家族が怪物を見るや否や、問答無用で襲い掛かり、怪物を追い払ってしまう。挙句の果てに、「こんなところに住んでいられない」と小屋を引き払うという始末である。
怪物はその醜さ故に愛される資格を持たなかった。彼に最も近い存在であるはずの、生みの親であるフランケンシュタインですらその醜さに慄き恐怖していた。
「ああ!あの恐ろしい顔に耐えられる人などいないでしょう。蘇ったミイラでも、あれほどひどい顔はしていないはずです。完成前もその顔は見ていて、かなり醜いとは思っていましたが、筋肉と関節が動くようになってみると、その姿は、もうダンテですら考えもつかないようなものになっていたのです」(『フランケンシュタイン』p.108)
他人はおろか、生みの親すら愛してくれない。彼の外見が醜いというそれだけのことで。
絶望した怪物は博士に「せめてともに生きる伴侶を造ってくれ」と懇願するが、人造人間をもう一体造ることを恐怖した博士はそれを拒否する。この瞬間、彼の孤独は運命づけられた。
「ああ、フランケンシュタイン、ほかの人間には優しいのに、なぜおれだけを踏みつけにするのだ。この身体はおまえの正義、いやおまえの慈愛を受けてしかるべきなのだ。忘れるな。おまえがおれをつくったのだ。おれはアダムなのだ。だが、このままではまるで何も悪いことをしていないのに、喜びを奪われた堕天使ではないか。あちこちに幸福が見えるのに、おれだけがそこからのけ者にされている。おれだって優しく善良だったのに、惨めな境遇のために悪魔となったのだ。どうかおれを幸せにしてくれ。そうすればもう一度善良になろう」
「立ち去れ! もう聞きたくない。おまえと仲良くなどできるものか。おまえは敵だ。失せろ! さもなければ、戦ってどちらかが倒れるまでだ」(『フランケンシュタイン』pp.184-185)
怪物は愛情や知性に欠けて生まれてきたわけではなかった。しかし、世界が彼を否定した。醜さがもたらした惨めな境遇が彼の心を蝕み、復讐心に燃えた悪魔へと変貌させた。
世界に否定された者の行く先は一つしかない。
世界への憎悪である。
「命を受けた日よ、呪いあれ」
怪物は拒絶を運命づけられた姿で生まれてきた。また、仲間となる怪物もいない。人間社会に交わることも叶わず、共に生きる者もいない完全な孤独。そんな彼にとって生を受けたことは苦痛以外のなにものでもなかった。
「命を受けた日よ、呪いあれ」おれは苦痛にあえいで叫んだ。
「呪われし創造主よ! おまえすらも嫌悪に目を背けるようなひどい怪物を、なぜつくりあげたのだ? 神は人間を哀れみ、自分の美しい姿に似せて人間を創造した。だがこの身はおまえの汚い似姿にすぎない。おまえに似ているからこそおぞましい。サタンにさえ同胞の悪魔がいて、ときに崇め力づけてくれるのに、おれは孤独で、毛嫌いされるばかりなのだ」(『フランケンシュタイン』pp.233-234)
どうして彼は醜い姿で生まれなければならなかったのか。いや、そもそもなぜ彼は生まれなければならなかったのか。
そこに理由などない。生きる理由などは与えられず、ただ生み落とされる。怪物は神によって造られたのではない。神の領域を侵したフランケンシュタインによって造られたのだった。この世界に神などいない。故に、実存に先立つ本質などもないのだ。
怪物の最大の不幸は、孤独を運命づけるその醜さである。そして、二番目の不幸は生まれてくることを拒否できなかったことであった。
芥川龍之介の『河童』に出てくる河童は、この世に生まれてくるかどうかを選ぶことが出来た。父親は母体の中の息子に生まれてきたいかを問うのだ。
父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ生れて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ。」と大きな声で尋ねるのです。バツグもやはり膝をつきながら、何度も繰り返してかう言ひました。それからテエブルの上にあつた消毒用の水薬で嗽ひをしました。すると細君の腹の中の子は多少気兼でもしてゐると見え、かう小声に返事をしました。
「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を悪いと信じてゐますから。」(『河童』)
息子は「生れたくはありません」と返事をした。すると、この直後に産婆は母親の身体に注射器を刺し込み、息子を殺してしまう。
この選択の是非はわからない。
ただ、喝破は生まれてくるかどうかを選ぶことができた。
怪物は選べなかった。
それが故の「おまえすらも嫌悪に目を背けるようなひどい怪物を、なぜつくりあげたのだ?」という台詞なのである。
『フランケンシュタイン』の出版と同時代である19世紀前半の思想家、キルケゴールもまた実存的な問題を提起していた。
彼が説いたのは宗教による救済である。
しかし、怪物はその道も選べなかった。
勝手に生み落とされ、人間とも神とも断絶されていた怪物。彼を凶行に追いやったのは、その絶望的なまで孤独であった。
「かわいいは正義」なら「ぶさいくは悪」なのか?
怪物は復讐の最終段階で、フランケンシュタインを殺害する。殺害の直後、博士の友人は怪物を見つけて問いただす。生前の博士に怪物のことを聞いていた友人は、好奇と同情から怪物のことを知ろうとした。
ここから怪物の怒涛の嘆きが始まる。怒りと悲しみと絶望に満ちたその長口上は8ページに及んでいる。博士視点で物語が綴られ、怪物はその行動ばかりがクローズアップされていたため、読者はここで怪物の苦悩を目の当たりにすることになる。
どんな罪もどんな悪事もどんな悪意もどんな不幸も、おれのものとは比べものにはならぬ。自分が犯した恐ろしい罪を思い返してみると、とても信じられないのだ。かつては崇高にして、現世を超越した思いで満たされ、美や壮麗なる善を夢見た自分。それと今のおれは同じものなのか。いや、そうなのだ。堕ちた天使は悪辣な悪魔になるのだからな。だがそんな神と人間の敵にも友はいて、寂しさを慰めてくれるだろう。しかし、おれは一人なのだ。(『フランケンシュタイン』p.396)
怪物は美徳も罪悪感もおよそ人間らしい感情をすべて持ち合わせていた。だが、孤独は彼を悪魔に変えた。いや、悪魔にさえ仲間はいる。彼にはその仲間すらいなかった。
ここで言う孤独とは、”一人でいること”を指すのではない。“周囲からの拒絶によって一人でいることを強いられる”という宿命のことを意味する。
「かわいいは正義」という言葉がある。
では、「ブサイクは悪」なのか?
フランケンシュタインは悪だったのか?
言うまでもなく、そんなわけがない。生まれついた外見によって正義/悪が決定するなど、たちの悪い優生思想でしかない。
にも関わらず、現代日本ではあまりにも軽率に外見いじりが行われている。
より過激であることを、露悪的であることをフォロワー数という形で肯定するSNSでは、外見の中傷も一つの「芸」になっている。
そして、それを見て笑い、いいねを押す人間も紛れもない中傷の加担者であるが、多くの人はそれに無自覚的である。
その行為がどうしようもない孤独と絶望を心に植えつけ、傷つけられた人の心を”怪物”に変えてしまうかもしれないのに。
博愛の心を持って怪物に愛を寄せるべし、とまでは言わない。
だが、せめて自分の言動が人の心へもたらす影響への想像力くらいは持ち合わせておきたいものである。