※本記事は『トゥルーマン・ショー』のラストに関するネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。
自分の人生が”TV番組のショー”である男の物語
物語の主人公トゥルーマンは保険会社に勤める平凡なセールスマン。
ただ、特別な点が一つある。
それは、彼の人生がTVの”ショー”として全世界に公開されていることだ。
トゥルーマン本人は、自分が”ショー”に出ていることなど気づいてない。
ましてや自分の住んでいる世界が離島に作られたセットで、周りの人間が全員キャストであるなどということは知るよしもない。彼の人生は”監督”の作る”物語”に過ぎず、消費されるために存在している。そんななんともメタフィクショナルな映画である。
しかし、ある日トゥルーマンは世界の違和感に気づく。
周りの人間がひたすら同じところをグルグル回っていたり、番組スタッフの無線を偶然にも傍受してしまったりといったことが続いたのだ。そして、自分の住む世界に不信感を抱いたトゥルーマンは、この”セット”からの脱出を試みる……。これが本作品の簡単なあらすじである。
この映画はさまざまな見方が出来る。人間の人生すら消費の対象としてしまう資本主義社会の姿を皮肉っている作品とも、世界の創造主、”神”であり”父”であるクリストフから”息子”トゥルーマンへの愛情を描いた作品とも解釈出来る。
その中で一番心を惹かれた部分は、リアリティーショーという舞台を以てディストピアを表現した点である。
ディストピア作品としての『トゥルーマン・ショー』
厳密に言うと、この映画をディストピア作品に分類することは難しいかもしれない。通常、ディストピア小説などはディストピア化した社会をテーマにしている。
しかし、この作品ではあくまで監視されているのはトゥルーマンただ一人。その観点からすると、リアリティーショーの世界は社会ではなく、ディストピアとは言えない。
ただ、それでもディストピアという言葉を用いたのは、“快適な作られた世界”か”自由だが保護されない世界”かという選択がこの作品の根底にあると感じたからだ。
オルダス・ハクスリーは『素晴らしい新世界』で同様の問題提起をしたが、『トゥルーマン・ショー』はリアリティーショーという舞台で同じテーマに挑戦している。
トゥルーマンが生きるセットの世界は、”理想的な平凡な人生”を彼に送らせてくれる。家族や友達に恵まれ、ほどほどに仕事が忙しく、時にはラブロマンスも……。何不自由なく、安全・安心な世界である。
「人一人の人生をショーとすることに罪悪感を感じないのか」と視聴者から問い詰められ、ショーの監督であるクリストフはこう答える。
「現実の世界は”病んで”おり、彼には理想的な生活を与えている」と。
そして、トゥルーマンがこの作られた世界に不満を覚えるなら、外の世界に向かって出ていくはずだ、その時は我々は止めることをしない、そう続けた。
クリストフは、トゥルーマンが快適なセットの世界を捨て、未知なる外の世界を選ぶことなどありえないと考えていたのだ。
しかし、トゥルーマンの行動はクリストフの予想を裏切った。彼は“快適な作られた世界”か”自由だが保護されない世界”かという選択のはざまに立たされた。外に出るには幼い頃にトラウマを抱えた海を越えねばならない。海上では”神”であるクリストフによる大嵐が吹き荒れている。この世界を出たところで、そこに何があるは全くわからない。それでも外の世界へ行くんだ。トゥルーマンはそう決断した。
このトゥルーマンの行動を見て想起されたあるシーンがある。
それは『進撃の巨人』の冒頭である。
“自由への意志”と”人間の本性”
『進撃の巨人』は、人を喰らう巨人に支配された世界とそこに住む人々を描いた作品である。人々は巨人の侵攻を食い止めるため、巨大な壁を造りその中に暮らしていた。人々は壁外に出られない代わりに、内地での平和を手に入れたのだ。
しかし、その平和を”家畜の安寧”だと切って捨てた少年がいた。それが主人公エレンである。エレンは外の世界が危険だと知りつつも、探検したいという夢を持っていた。
エレンは内地の平和を”家畜の安寧”だと切って捨てる。自分は人間なんだ。人間だからこそ、外の世界を自由に旅したいんだ。こうしたエレンの思いは作品を通して一貫している。
エレンは”人間”と”家畜”という言葉をよく使う。そこに見えるのは、“人間だからこそ、自由を求めるんだ”という、”人間らしさ”の希求である。自由を獲得することで、ヒトは人間になれる。エレンの態度からは、“自由への意志”こそが人間の本性(ほんせい)であるという強い信念が覗える。
この“自由への意志と人間の本性”というテーマは『トゥルーマン・ショー』と共通する部分である。
究極の決断―”作られた快適な世界”か”自由だが危険な世界”か
映画のラストシーン。船を漕いで”世界の果て”へとたどり着いたトゥルーマンは、セットに響くクリストフの声と対話する。そして、そこで自分の世界が創られたものだと告げられたトゥルーマンに、クリストフはこう続ける。
「外の世界より真実があるのは――私が創った君の世界だ。君の周囲の嘘。まやかし。だが君の世界に――危険はない」
外へと繋がる扉を前にし、トゥルーマンは葛藤する。本当に自分は外へ出ていくべきなのかと。そんな彼にクリストフは「君は怖いから外へ出ていけないんだ」と投げかける。”作られた快適な世界”か”自由で危険な世界”か。クリストフはトゥルーマンが前者を選ぶことを信じていた(あるいは、信じたがっていた)。
しかし、トゥルーマンは外の世界を選んだ。トゥルーマンの決断における示唆的な台詞がある。それは、「私は君のすべてを知っている」と語るクリストフに対して言い返した、“Never had camera in my head!(頭の中にカメラはない!)”という言葉である。
クリストフ(Christophe≒Christ)は”トゥルーマン・ショー”の生みの親であり、トゥルーマンにとっての創造主である。彼の親も友人も仕事も物語も全てはクリストフが創ったものだった。彼は全てを支配していた。
だが、彼にも支配できない領域があった。
それはトゥルーマンの“自由への意志”である。彼の脳内にカメラを置くことやキャストを配置することはクリストフにもできなかったのだ。
”Is nothing real?(全ては作り物だったのか?”
“You…are real.(君は本物だ)”
クリストフ自体、トゥルーマンだけは作り物でないことを認めていた。トゥルーマンは、彼の意志を発揮できる余地があるからこそ人間であったのだ。彼の意志、それだけがまがい物だらけの世界の中で、たった一つの”本物”だった。そうしてトゥルーマンは神に庇護された世界を離れ、クリストフによって作られた“Truman”から”True man(本当の人間) “への道を歩み始めたのであった。
快適な世界から決別したトゥルーマンの”自由への意志”。その中に我々は人間らしさというものを見出すことが出来る。