実写版『秒速5センチメートル』感想/考察―「美し過ぎる過去」という呪いと18年越しの解放

「『秒速5センチメートル』は鬱映画である」

そんな語られ方をされてはや18年。
あの『秒速』がついに実写化された。

「カップルで見に行くと別れる」「精神的にダメージを負う」
そんな評判が立つほど、『秒速』は多くの人の心に棘を残してきた。
かといって、単なる露悪趣味の映画では断じてない。
私小説を感じさせる繊細な心理描写に、息を呑むような映像美。
名状しがたい感情を残すような映画だからこそ、名作として今日まで多くのファンがついている。
そんな『秒速』の実写版はどのような作品だったのか。

今回、実写版を観て強く感じたこと。
それは、実写版が、長年私たちが(そして主人公の遠野貴樹が)囚われていた「呪い」を解くような作品だったということである。

なぜ原作のラストは、あんなにも我々の心をえぐったのか

『秒速』の原作はなぜ「鬱映画」と呼ばれたのか。
その原因は言うまでもなく、ラストシーンの踏切である。

お互い想い合っていた、小学生時代の貴樹と明里。
親の転勤により引き裂かれた二人だったが、文通は続いていた。
東京と栃木。
大人からはなんてことのない距離だが、子どもにとっては果てしなく遠い。
中学生になった貴樹は一大決心をして明里に会いに行くが、今度は悪雪が二人の間に立ちはだかる。
しかし、そんな困難を乗り越えて二人は再開し、桜の木の下でキスを果たした。

漫画版『秒速5センチメートル(1)』p.133

新海監督作品の中にはしばしば「完璧な時間」―「足すことも引くことも出来ない時間」―が現れるが、まさにこの瞬間はそれだった。

この日を境に再び別れた二人。
貴樹は明里のことが忘れられないまま大人になる。
しかし劇中ラスト、二人の再会を予感させるような山崎まさよしの「One more time, One more chance」が流れ始める。
貴樹と明里の心がシンクロするかのように、交互にモノローグが繰り返される。
そしてついに二人は踏切ですれ違い、すれ違った女性が「あかり」だと確信した貴樹は振り返るが―。

電車が通り過ぎた後、そこに彼女の姿はなかった。

漫画版『秒速5センチメートル(2)』p.173

壮大な前フリからの、肩透かし。
「貴樹がずっと明里のことを想っていたように、明里も貴樹のことを想っていたんだ」という視聴者の希望を打ち砕いた瞬間だった。

このシーンがショッキングだったのは、単に貴樹が失恋したからではない。
「距離は離れても心では繋がっているはず」という想いが一方的なものであり、相手はもはや何の想いも持っていなかったという事実を突きつけられたように感じるからだ。
特にラストシーンの直前、貴樹と明里のモノローグの交差により、二人の心は繋がっているんだと期待させられた分、その落差は大きい。
モノローグのモンタージュによる演出は前作の『ほしのこえ』でも見られたため、同作を観ていた人は「裏切られた」とさえ感じたかもしれない。

第三話「秒速5センチメートル」は大人になった貴樹と明里の物語で、二人は東京ですれ違う。山崎まさよしの歌「One more time, One more chance」に合わせて様々な回想や断片が現れるPV的な作りが感興を盛り上げる。二人のモノローグが編集にて「つながっている」印象を観客に与えるが、実はつながっていない、という結末を突きつける衝撃作である。演出的な企みとして言えば、前二作で試したモンタージュによる「つながっている」感覚をもたらす力を、大胆に逆手に取った作品だと言える。
藤田直哉『新海誠論』 (p.74)

貴樹はずっと明里を想い続けていた。彼にとって人生のヒロインは明里であり、あの雪の日はいつまでも脳裏から離れない奇跡の時間だった。
しかし、明里にとってそれは既に「過去」であり、貴樹のことなんか忘れてしまっていた。
もしそうだとしたら、貴樹が大人になっても一途に抱え続けてきた想いは、ただの「一方的な独りよがり」であり、過去の幻想に振り回されていた彼は道化だったのではないか
そして何より、あの時間は本当に完璧な時間だったのか、美化された呪いだったのではないか
そう感じてしまった視聴者は、原作のラストに深く、鋭く、心をえぐられることになった。

「美しすぎる思い出」は呪いになる

そもそも、なぜ貴樹はこれほどまでに過去に囚われてしまったのでしょうか。

それは、中学時代の明里との再会、あの雪の日のキスが、彼の人生においてあまりにも「ピーク」でありすぎたからだった。

あまりにも美しく、完璧な瞬間。
もしも二人が大人だったら、そのまま付き合い、結婚し、貴樹の物語はわかりやすいHAPPY ENDを迎えられたかもしれない。
あるいは二人とも同じ中学校に通っていたら、順当に付き合い、順当に別れるといった展開もあっただろう。
しかし、その若さと物理的な隔たりは、物語を「閉じる」ことを許さなかった
あの美しい時間を凍結したまま、二人の時間は流れ続けたのだった。

「美しすぎるのに、閉じていない物語」。これは、人生において強力な「呪い」となる。
あの瞬間以上の感動がこの先の人生に現れないのであれば、その後の人生はすべて、あの輝かしい瞬間の残り火――つまりエピローグ(余生)になってしまうからだ。

もしくは、あの日を人生の伏線として回収し、物語が閉じる日がやってくるかもしれないという想いに囚われることになる。
いずれにせよ、そのような妄執に囚われてしまったら、「今この瞬間」を生きることはできない。

第二話「コスモナウト」のラスト、花苗は貴樹のその本質に気づく。

漫画版『秒速5センチメートル(2)』p.34

新海監督本人も、『桜花抄』のクライマックスを貴樹にとっての「巨大すぎる幸せのピーク」だったと述べている。

『桜花抄』のクライマックスはタカキにとっては上書きできない、巨大すぎる幸せのピークだったので、その後それ以上の経験ができずに苦しむことになる。『桜花抄』だけ取り出すと、とても幸せな話ですけれど、10代のころは、まだ独り立ちして生きていく必要はないから、その年代にギュッと幸せが詰まっている。その幸せでもって先の人生をうまく生き抜いていって、やがて別の幸せを見付けるのが人生の基本的な流れだと思うんです。タカキの場合、あの3本のエピソードが終わった後に、新しい幸せを見付けていくんでしょうね。だけど、映画の中の3本だと『桜花抄』が幸せのピークなので、見終わった後にちょっと寂しくなってしまう。
『新海誠Waker 光の輝跡』p.86

本当は振り切って次に進むべき人生を、終わらない物語の続きとして生きてしまう。
まさに「記憶に足を取られて 次の場所を選べない」状態。
それこそがあの雪の日が貴樹にもたらした呪いだった。

『秒速』の「トラウマ」は意図されたものではなかった

『秒速』は一部の視聴者に深い傷を残すような作品だった。
そのことはもはや疑いようもない。

しかし、『秒速』によって視聴者が植え付けられたトラウマは、監督によって意図されていたものだったのだろうか?
これについては明確に「否」であると言える。
新海監督自身が、『秒速』は想定と違う受け取られ方をした作品だったと振り返っている。

― 特に第三話のラストは、新海監督の意図とは違ったベクトルの感情を引き出された観客が多かったのではないでしょうか。
新海 僕としては、タカキが初恋を置いて次に進んでいく成長を描いたつもりだったんですが、十分に伝えきれなかったという反省があります。「ひたすら悲しかった」「ショックで座席から立てなかった」という感想がすごく多かったんですね。観客を励まそうと思ったのに落ち込ませたというのは、完全に逆の作用じゃないですか。
『新海誠展 「ほしのこえ」から「君の名は。」まで』p.180

新海監督にとって、あのラストシーンは「ついに次に進めた」という成長を描いたものだった。美しい思い出に囚われることがあったとしても、それは吹っ切れるという「励まし」だったのだ。
けれど視聴者には「明里が振り返らなかった」ことの衝撃の方がよっぽど記憶に残ってしまった。

このすれ違いは新海監督にとっても心残りだったのだろう。
実写版『秒速』の劇場パンフレットにおいて、新海監督は次のように語っている。

映画を観始めて、最初はなんだか居心地が悪かったのです。不完全で未熟なバトンを若い作り手たちに渡してしまったような気持ちでした。
(『秒速5センチメートル 劇場パンフレット』p.25)

励ますつもりの作品が、多くの人にショックを与えてしまった。
新海監督にとってそのような位置づけだった作品である『秒速5センチメートル』。
はたしてこのバトンを受け取った実写版は、どのように物語を再解釈したのだろうか?

目次

実写版と原作の決定的な違いは、「大人になった明里」の描写である。
原作では過去の想い出に閉じ込められ、神格化、偶像化さえされていたように感じられた明里だったが(実写版明里の役の高畑充希はそれを「記号的」と表現していた)、実写版では「書店で働く一人の人間」として描かれていた。
同僚と他愛もない会話をし、仕事で一喜一憂するその姿からは、明里から神性を剥奪しようとする奥山監督の意思を感じた。
明里は貴樹の郷愁の牢獄に閉じ込められる偶像などではなく、現実を生きている人間なのだ、と。
「あの日」の桜の木はこの上なく幻想的に映す一方で、その後の未来は対照的なまでに現実的だった。

このように現実を生きる一人の人間としての明里が描かれた実写版だったが、何よりも注目したい原作との違いがある。
それは「明里がなぜ、あの場所へ行かなかった(戻らなかった)のか」が明示された点である。

実写版では明里から「三十歳のとき、貴樹くんがどうしようもない大人になっていたら、ここで一緒に地球の滅亡を迎えてあげる」という約束が交わされる。これは原作アニメにはないが、小説にあった要素である。
約束の日は、2009年3月26日。
地球が滅亡するかもしれないという日。

実写版のクライマックスは、この日に約束の場所へと駆ける貴樹と”One more time,One more chance”によって迎えられる。
はたしているのか、いないのか。
原作ではなかった逆転Vはありえるのか。
――当然そんな展開があるわけもなく、明里はついぞ来なかった。

だが、実写版では「約束の場所へ行かなかった理由」が彼女の口から語られ、館長の口を通して貴樹に伝えられる。
それは、
「貴樹は私がいなくても”大丈夫”だから、こんな約束を忘れていて欲しいし、私は会いに行かない」
というものだった。

彼女は忘れていたわけでも、貴樹のことなどどうでもよかったのではなかった。
映画の中で描かれたのは、「貴樹を思うがゆえに、行かないという選択をした」というあかりの意志だった。
距離は離れていても、再会できなくとも、結ばれなかったとしても、明里の中に貴樹は生きていたのだ。貴樹の心の中に明里が生き続けていたように。

彼女の「行かない」という選択は、冷徹な拒絶ではなく、一つの愛の形だった。
貴樹の抱えてきた過去もまた、独りよがりの妄想ではなかった。
これが事実として提示されたからこそ、貴樹も、原作に囚われていた視聴者も過去への未練を乗り越えられるようになる。

奥山監督は、作品を撮り終えて感じたことについてこう述べている。

『秒速5センチメートル』を作って感じたのは、大人になるということは、失うものがどんどん増えていく。若さを失うし、残されている時間もなくなるし、大切にしていたはずのものも忘れていくし。そういう中でも、過去への未練に縋り続けるわけにはいかないから、それを糧にして前に進んでいく。自分の中で失うということと、どうポジティブに付き合っていくか、一歩前に踏み出して進んでいけるかどうかが、大人になるうえでは大事なことなのではないかと作品を通して思えるようになりました。
『秒速5センチメートル 劇場パンフレット』p.23

過去を乗り越え、一歩前に進む。
これはまさに、新海監督が描きたかったものに他ならない。
新海監督は実写版を観て強く感動させられ、泣いてしまったという。

あらためて、『秒速5センチメートル』は奇妙な物語です。たいしたドラマツルギーもなく、胸のすく活劇もなく、ヒーローも悪役もいない。皆が理由もなく傷つき、傷つけられ、いつもなにかが満たされずにいる。でも20年前は、その「なにもなさ」が私たち自身の姿であり生活であり、それを掬いあげるようなアニメーション映画を作ろうと思っていたのです。アニメーション版がその目標に届いていたかは心もとないのですが、今回の実写映画では当時のその不器用な種が、青さも含んだままに見事な結実となっていました。『秒速5センチメートル』を作っておいてよかったと、(ほとんど初めて)心から思えました。
『秒速5センチメートル 劇場パンフレット』p.25

奥山監督は見事にバトンを受け取り、新海監督の未練さえも浄化した。
実写版『秒速』は貴樹、視聴者、そして新海監督までも救済するような物語だった。

物語を閉じて、プロローグを始める

実写版のこの改変(あるいは補完)によって、物語はようやく「閉じる」ことができた。

二人の思いは通じていた。過去は汚れてなどいなかった。
その確信が得られたからこそ、貴樹は——そして私たち視聴者は——、あの美しい思い出を「呪い」としてではなく、「美しい記憶」としてアルバムにしまい、前を向くことができる。

原作アニメが現実の残酷さと断絶を突きつける作品(と、受け取れてしまう)な一方、実写版は、その断絶に橋を架け、止まっていた時間を動かす作品だった。

呪いに囚われていた貴樹を、そして18年以上も踏切の前で立ち尽くしていた私たちを解放してくれた実写版『秒速5センチメートル』。
過去への未練に縋っている人に対し、今この瞬間を「エピローグ」ではなく、新しい物語の「プロローグ」として生き直させてくれるような作品だった。

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この記事を書いた人

本と文章が大好きな経営者です。
㈱デイトラというWebスキルのリスキリングを行う、オンラインスクールの取締役兼マーケティング責任者をしています。
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