市長は本当に”ダメなやつ”なのか|『私がビーバーになる時』感想

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市長は市民の正しき代弁者だった

ディズニー映画『私がビーバーになる時』に登場する市長は、一見すると典型的な「話の通じないおじさん」に見える。
新道路の建設で山の湖が消える計画を推し進め、主人公メイベルの訴えにも耳を貸さない。動物たちの生息地を奪う元凶。観客からすれば、倒すべき相手である。

しかし、この市長は終始「約束だから」と言い続けている。
政策として市民に約束したことだから破れない。他の住民のためにならないから変えられない。
これは優柔不断でも悪意でもなく、市民から預かった約束を守ろうとする、代弁者としてまっとうな姿勢である。

作中でも市長は近隣住民から慕われている。
彼は市民にとって正しく良い人であり、彼らの利益を代弁する存在であった。
この事実を踏まえて改めて問いたい。
市長は本当に「ダメなやつ」だったのか。

市長も正しいし、動物たちも正しい

動物たちの側にも正義はある。

市長に扮した虫の王が人間たちに問いかけるシーンが象徴的だ。
「虫を殺したことがあるか」
人間たちが軽率に手を挙げる。
虫にとっては同胞が日常的に殺されている。
その怒りと復讐の動機には、確かな説得力がある。

一方で市長には市長の論理がある。道路は住民の生活のために必要であり、行政として約束した政策を一方的に覆すわけにはいかない。人間社会には人間社会のルールがある。

どちらが正しく、どちらが間違っているという話ではない。
それぞれが、それぞれの論理で正しく動いているだけである。

ドラえもんの有名なコマに、こんな台詞がある。

ドラえもん(1)p.107

「戦争なんてどっちも正しいと思ってるんだよ」。まさにこの状態である。

では、どちらも正しいものがぶつかったとき、我々はどうすればいいのか。

正義と正義の衝突は、闘争でしか決着がつかない

『銀河英雄伝説』は、この問いを壮大なスケールで描いた作品である。
民主主義を掲げる自由惑星同盟と、専制政治を極めた銀河帝国。
「民主主義と君主主義、どちらが正しいのか?」という問いがこの物語に通底している。

銀河英雄伝説(20)p.84

銀河英雄伝説(20)p.84

結局、この作品は答えを最後まで出さなかった。

ヤン・ウェンリーはこうも語る。
「絶対的な善と完全な悪が存在する、という考えは、おそらく人間の精神をかぎりなく荒廃させるだろう」と。
どちらもが自分の主張を押し通そうとしたとき、残る手段は闘争しかない。そんな現実を、この作品は何度も突きつける。

この映画でも同じことが起きている。虫の王は博士を脅迫し、市長型ロボットに意識を移して人間を一網打尽にしようとした。
対話は決裂し、闘争に至った。
それぞれの正義が噛み合わないとき、衝突は避けられない。

問題は、その先にある。闘争の後、敗者がその結果を受け入れられるかどうか。
戦後処理がうまくいくかどうかは、「納得できる物語」が形成されるかにかかっている。

偶然に救われた戦後処理

この映画の結末を、事実だけで見てみる。

道路建設計画は棚上げされた。人間側が完全に譲歩し、動物たちの主張が100%通った形である。
人間側の完全敗北。
これが事実である。

にもかかわらず、映画の着地は不思議と爽やかだ。
両者が理解し合い、寄り添い合っているように見える。

なぜか。
闘争の最中に山火事が発生し、人間と動物が協力して鎮火に当たったからである。
この共通体験が、敗者である人間側にとっての「物語」になった。
ただ負けたのではなく、一緒に危機を乗り越えた。
この物語があることで、人間側は結果を受け入れることができた。意味のある「負け」にできたのだ。

ただし、冷静に見れば、これは偶然に救われたにすぎない
山火事がなければ、人間側はただ一方的に計画を潰されただけである。
納得の物語は生まれず、戦後処理は破綻していた可能性がある。

正義と正義の衝突において、闘争そのものは避けがたい。
しかし本当に難しいのはその後である。
敗者が受け入れられる物語が、都合よく用意されるとは限らない。
この映画は、その危うさを——おそらく意図せず——描き出しているのである。

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この記事を書いた人

本と文章が大好きな経営者です。
㈱デイトラというWebスキルのリスキリングを行う、オンラインスクールの取締役兼マーケティング責任者をしています。
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