※本記事は『レディ・プレイヤー1』に関する軽度なネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。
「俺はガンダムで行く」に日本中が湧いた
映画未視聴の人へ向けて簡単に説明します。
「俺はガンダムで行く」は、映画『レディ・プレイヤー1』の劇中台詞です。
“OASIS”というVR(仮想現実)が流行した近未来、人々にとってOASISでの生活は現実と同様かそれ以上に大切なものとなっていました。
しかし、ある大企業が営利のためにOASISを牛耳ろうとしたため、主人公は戦いを挑むことになります。
そうして迎えた最終戦争で、敵の親玉が乗った機体はなんとメカゴジラ。
他のプレイヤー達の何十倍ものスケールを持った巨大メカゴジラは、戦場を蹂躙していきます。
強大な敵を前に主人公陣営は太刀打ちできず、万事休す…
という場面で先頭に現れたのが、主人公の仲間であり日本人のダイトウでした。
それまで「ダイトウ、早く戦闘に参加しろ!」と仲間に急かされていたものの、それに応じず精神集中をしていたダイトウ。
それが、仲間の絶体絶命の場面で、ついに戦闘へ合流!
好きなキャラクターに変身できるアイテムを持っていたダイトウは、ガンダムを選択。
ガンダムへと変身したダイトウは、仲間の窮地を救い、果敢にもメカゴジラへと戦いを挑みに行く……。
この出陣シーンでダイトウの放った台詞こそが、「俺はガンダムで行く」なのでした。
最高に燃える展開でのこの台詞は劇場に足を運んだ人々の心を掴みました。
当時は映画ファンのTLに「俺は〇〇で行く」がミーム化していたくらいです。
しかし、この台詞が注目されたのはシーンのドラマチックさだけが理由ではありません。
人々の関心を集めた”ある議論”が存在するのです。
「ダイトウ、行きまーす!」であるべきだった?
人々の関心を集めたある議論。
それは、「ダイトウ、行きまーす!」では駄目だったのか、という議論です。
「○○、行きまーす!」とは、言わずもがな、機動戦士ガンダムの主人公アムロ・レイが出撃するときの定番セリフです。
「スピルバーグは『行きまーす!』と言わせるべきだった」とある映画評論家がコメントをしたという噂がTwitter上で流れため、本編の台詞の是非について議論が盛り上がることになったのです。
『レディ・プレイヤー1』では劇中のいたるところにサブカルのオマージュを盛り込んでいます。
だからこそ、ガンダム本編の名台詞を使ってもよかったのではないか、という意見も理解できます。
「俺はガンダムで行く」か「ダイトウ、行きまーす!」か。
どちらの台詞を選ぶかというのは、結局制作者の意図次第です。
なので「こちらが絶対正解」と論ぜられるるものではありません。
しかし、「俺はガンダムで行く」という台詞が選ばれたことで、表現されたものがあります。
それは、このシーンにおけるダイトウの、そしてギークが持つ気概です。
オタクのアイデンティティは、”選ぶ”ことに現れる
『レディ・プレイヤー1』に出てくる主人公チームは、オタク(ギーク)の集まりでもあります。
普段の会話がサブカルからの引用まみれであることは当然ながら、デッド・プールのコスプレで街を歩いたり、工場でアイアン・ジャイアントの製造までしていたり……。彼らは特定の趣味に対して途方も無い情熱を注いでいます。
オタクとは、人並み外れた関心を向ける何かを持っている人種です。
彼らの愛情は凄まじく、常人には理解できないということも多々あります。
日本でも、極端なアニメオタクやゲームオタクなどが(悔しいことに)嘲笑の対象となることが多々あります。
「どうしてそんなことに熱狂できるの?暇なの?」と言われることさえあります。
たしかに、他人からは理解できない趣味に没頭していると、しばしば冷たい視線を浴びることになります。
しかし、それにも関わらず趣味を捨てられない人は、オタクであることをやめられなかったとともに、それを生き様として選んだ人でもあるのです。
他人が何を言おうと、自分はこれを愛している。
そこまでの強烈な愛情を何かに向けたとき、愛情の対象は自分から切り離された存在ではなく、自分のアイデンティティを構成する要素となります。
つまり、「何かを愛し、選ぶ」という行為は、それ自体が曖昧模糊な”自分自身”を象徴するものとなるのです。
“I choose the form of Gundam”に込められたダイトウの気概
さて、「俺はガンダムで行く」のシーンをもう一度見てみましょう。
「俺はガンダムで行く」。
この短い一言にはダイトウの強い想いが現れています。
それは、この台詞の英訳からも明らかです。
「俺はガンダムで行く」は、英語字幕では”I choose the form of Gundam”となっています。
ここで注目したいのは、”choose”という動詞です。
ただ単に、「ガンダムというキャラクターで戦場へ赴く」ということを伝えたいだけなら、”go by the form of Gundam”でもよかったはずです。
むしろ、”何で行くか”を伝えたいだけなら、手段を表す前置詞”by”を用いる方が適切とさえ思えます。
しかし、実際にこのシーンの英訳で使われたのは、”choose“でした。
ここには、「俺はこのガンダムという機体を、世界を救う戦いを共にする相棒として選んだんだ」というダイトウの気概が現れています。
劇中では直接描かれていませんが、その気概の源泉にあるのは、強烈な”好き”という感情でしょう。
「どのキャラクターが一番強いか」
「どのキャラクターなら巨大なメカゴジラを打ち倒せそうか」
といった合理的な判断ではなく、自分自身の中にある強い想いに突き動かされ、選んだのがガンダムだったのです。
「一番強くなくたってかまわない」という想い
『レディ・プレイヤー1』の原作小説、『ゲームウォーズ』では、主人公ウェイドがその熱い情熱からあるロボットを選択しています。
以下は、ウェイドがゲームクリアの報酬として、鉄人28号からマクロスまで、百種類以上のロボットから欲しいものを選ぶシーンです。
本物の、ちゃんと動くロボットをもらえるのかもしれない。そう考えて、選択に慎重になった。一番強くて、一番装備のいいロボットを選びたい。しかし、レオパルドンを見つけた瞬間、ジョイスティックを動かす手がぴたりと止まった。コミックの『スパイダーマン』を原案として一九七〇年代に日本で製作された特撮テレビドラマ『スパイダーマン』に登場する巨大ロボットだ。リサーチの過程で『スパイダーマン』を知って以来、とりこになってしまった。レオパルドンを見つけた瞬間、どれが一番強そうかなんてどうでもよくなった。絶対にレオパルドンがいい。一番強くなくたってかまわない。(『ゲームウォーズ(下)』p.112)
なんと、数ある超有名ロポットの中から、ウェイドが選んだのは東映版スパイダーマンに登場した”レオパルドン”というマイナー ロポットだったのです。
このレオパルドンを選んだ時の、
「一番強くなくたってかまわない」
というたった一言に、気概が、想いの強さが現れているのです。
性能を比べて選んでしまうと、その愛情は代替可能なものとなってしまいます。
対象を比較可能な要素へと分解し、他と比べることで価値を見出す営みは、言うならば相対的な愛情でしょう。
しかし、“好き”がアイデンティティに直結している彼らの愛情は、他と替えられない絶対的なものです。
強かろうが弱かろうが、そんなことはどうでもいいのです。
ダイトウがガンダムを選んだのも、決してガンダムが一番強いと思ったからではないでしょう。
「絶対にガンダムがいい」という想いがあったからこそ、「俺はガンダムで行く」となったのです。
好きだから、選ぶ。
強敵に立ち向かう戦士としての覚悟と、自分の愛するガンダムを選ぶんだというオタクとしての気概。
これらの想いが見事に凝縮されたのが、「俺はガンダムで行く」だったのです。